@第一生命ホール
@草月ホール
OTTAVAで放送した貴重なインタヴューを聞き逃した方にも、是非ジスモンチの素晴らしいメッセージをお届けしたく、OTTAVAのご協力で、文字原稿をご紹介いたします。
2007/8/21 Interview by 林田直樹
(以下、林田…H、ジスモンチ…G)
H :昨日(2007/8/20@第一生命ホール)のコンサート、後半のピアノの所で、曲が終わる度に、何回かポンポンとピアノを優しく叩いていたのがとても印象的だったのですが、やはり楽器と愛情をもってコミュニケーションしていらっしゃるのでしょうか?
G : 私は4人の妻、2人の子供と過ごした時間と親密性よりずっと親密に、長い時間ピアノと過ごしているので、当然、ピアノとは会話するし、ちゃんと弾かしてくれてありがとうと感謝もします。
ギターについても、弾いた後は、しばらく抱いてやって、感謝を捧げます。
自分を表現してくれる楽器なので、友情を持つのは当然です。昨日は、温度も湿度も最良のコンディションではなくて、ピアノの調子が非常に悪かったのです。調律師の方は非常に良くやって下さったのですが、私が着いてからも2回も調律しなければならず、それでもピアノは満足してくれませんでした。しかし、ライブが始まると、持ちこたえて最後まで良い音を鳴らしてくれたのです。
そういったことは私にとっては自然なことです。共存共生してきたからこその友情といえるでしょう。
H : 5歳からピアノ、10代でフルート、クラリネット、ギターを始めたということですが、子供のときの音楽との出会いの原点はどんな音楽だったのですか。音楽家になろうと思ったきっかけは?
G : 父がベイルート出身で、20世紀のはじめ頃、ベイルートには上流階級があり、その文化として、子供にピアノを習わせることがあったのです。父はピアノが好きで、私に学べと言いました。一方、母はイタリア人で「ピアノはうるさい」と。母はセレナーデを演奏できるようなギターが非常に好きだったので、「それじゃ、ギターも学ぼう」ということになったのです。
それは子供心では当然だったのですが、気がついてみると、楽器に対して、まったく独立したものとして同時に演奏できるようになっていました。
8歳とか9歳ぐらいから、意識的にはじめたのでは、無理だったでしょう。もっと小さな時に、普通に父が好きだから、母が好きだからという理由で、自然にやっていたからそうなったんです。後で、まったく違う楽器を弾ける人は、そんなにいないことに気がついたのですが、それは、とりもなおさず、「自分が音楽とどう関わってきたか」という歴史を示すもので、それ以外のものではないのです。
H : 音楽家になろうとは、子供のころから考えていたのでしょうか?
G : その質問は、「あなたは一度でも音楽家以外の者になろうと考えたことはありますか?」と聞くほうが正しいと思います。というのは家族全員が音楽家だったので、それ以外のことは考えられませんでした。ただし、プロになるとは考えていませんでした。8歳から10歳ぐらいまでは、田舎で街の楽団(10人くらいいる管楽器の楽団。太鼓があってマーチなどをして街のお祭りなどに出る)のリーダーをやっていた叔父の後継者になれれば、と漠然と考えていました。今でも、全部投げ捨てて、引退して田舎に行って、そういうことをしてみたいと思うことがありますが。演奏は下手だけれども、皆すごく仲良し。そんな楽団のリーダーになれればと時々考えるのです。
H : 20歳の頃、オーストリアでオーケストレーションを学んだり、パリで勉強したということで、クラシック音楽をかなり意識されていたと思いますが、ウィーンやパリで学んだことは、今にどう生かされているのでしょうか。
G : 私は常に伝統的な音楽とポピュラーな音楽を平行してやってきました。ブラジル音楽院で、18か19歳のとき、ピアノの演奏家としてウィーンへ行く奨学金をもらえることになりました。その手続きをするために、リオに出たときに、バーデン・パウエルやトム・ジョビンらと知り合って、その時に、ジョビンが私にした質問が、私の人生を変えたと今でも思っています。ジョビンは私に「何でウィーンに行くの?勉強?遊び?」聞きました。私は、もちろん勉強はするつもりだけど「遊びに行こうかな」位に考えていたんです。
そしたら、ジョビンは「だったら行かないほうが良い。君は自分の音楽をやっていれば、そのうちウィーンなんかいくらでも行けるようになるんだから」。と言いました。
私は考えました。ちょうどその時、パリの女優のマリー・ラフォーレが「パリに遊びに来ない?」と誘ってくれたのです。そこで、私は、ウィーンの奨学金は蹴ってパリに行ったんです。ウィーンへは誰か他の人が行ったと思いますが・・・。
パリでは、ジャン・バラケとナディア・ブーランジェと知り合いになりました。この2人に偶然知り合い、「音楽を教えてあげよう」と言ってくれたので、1、2年滞在して、オーケストレーションとか作曲を習びました。夜は勉強し、昼間はラフォーレとカンカン、踊りのレビューのような世界に出て、お金を稼いでいたんです。
H : ナディア・ブーランジェは、コープランド、バーンスタイン、ピアソラらを教えた名教師として知られていますが、実際どんな人でしたか?
G : いろんな有名な人を教えたという考え方もありますけど、逆に私も含めて教えられた方が彼女と一緒に勉強する幸運に恵まれたと考えることもできます。
何を教えるにも非常に正確を期す人で、文明的な音楽にとっての分水嶺(ぶんすいれい)と呼べる人だったのではないでしょうか?
H : パリから帰国して、インディオと生活をともにしたと日本ではよく語られていますが、具体的に、どれ位、どんな人と暮らし、どんな体験だったでしょうか?
G : 質問が15年前くらいに書かれた自叙伝に沿っていますね(笑)。
あれは大きな本なので、お答えもまとめなくちゃなりません。
シングー(アマゾンの先住民の居住地)に行ったのは、パリから帰って7、8年後でした。
ブーランジェの質問にも関連しますが、彼女は80歳を超えていたのに非常に美しい人でした。
知性・知恵が美しいのです。西洋的に人に認めさせようとするのではなく、オリエンタルな感じのする、何といって良いか分からないが・・・。限りなく善良な人でした。80歳にもなってから、ある日、突然現れた南米人に対して、色んなことを教えてくれたんです。その頃もう生徒は取っていなかったのですが、この子には教えてやらなきゃと、いろいろ教えてくれたんですね。
彼女が一番最後に言った一言が、自分をアマゾンに向けさせました。
「もう、ここには、あなたは勉強することは残っていません。だから国に帰ったらブラジルを発見しなさい」と。
それが、頭に非常に残っていて、ブラジルを発見しようと思ったのですが、今でもずっと発見し続けていて、そういった意味でアマゾンは人生の一部のような感じです。今でもしょっちゅう行くし、友達もたくさんいますから。